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はんぶんのやさしさ

はんぶんのやさしさ

1. 八年前からの贈りもの

まえがき。
八年後の自分へ。手紙は、そんな書き出しで始まる。
呑気な場所で怠惰に過ごしていた高二の夏休みは、
その手紙をきっかけに大分変わった物となり始める。

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 その日は、まさに快晴と呼ぶに相応しい天気だった。
 カーテンの隙間から入ってきた光で目を覚ましたくらいだ、嫌でも天気を意識せざるを得なくなる。眩しさを堪えて目を開け、時計を見ると既に九時を回っていた。数少ない休日をこれ以上無駄に過ごすのは嫌なので、億劫だが布団から体を起こす。窓の外で、アブラゼミが忙しそうに鳴いている。そんなに子孫を残したいか。
 畳の匂いが鼻につく。自分がいつもと違う部屋で寝ているのに気付き、そういえば自分は祖父母の家に来ていたのだなと思い出した。小さく伸びをして、布団を慣れない手つきでたたむと、一歩歩くごとに軋む廊下を歩いて、顔を洗いに洗面所へ向かった。
 僕が今こうして祖父母の家にいるのには、少し変わった理由がある。
 夏休み終盤。つい昨日の朝食中のことだ。差し向かいに座ってパンを食べていた母が、ふと思い出したように、僕に告げた。
「おじいちゃんがね、泊まりに来ないかって」
「嫌だ」
 僕は即答した。何が悲しくて、高校生にまでなって祖父母の家に寝泊りせねばならんのだ。
 祖父母とは七年前までは東北のとある村で共に暮らしていたのだが、父の仕事の都合で引越しして以来、疎遠になっていた。今頃彼らに会って、何を話せと言うのか。母は「いい機会だ、行ってきなさい暇人」と言ったが、僕は課題がまだ終わっていないことを理由に、それを拒否した。
 朝食後、一向に終わる気配を見せない課題を前に頭を悩ませつつ、自室で音楽鑑賞に没頭していた。高校二年生にもなって扇風機の前で「あああ」と奇声を発していると、母がドアを開けて部屋に入ってきた。ノックくらいして欲しい。
「また音楽? 暇なら勉強でもしなさいよね」
 この母が口癖のように言う、『暇ならば勉強』という理屈は少しおかしいと思う。そんなこと言ったら、部活に入っていない僕は一日中勉強するしかない。学生にはこう、もっとほかにやることがあるんだと、僕は思う。例えば――思い出作りとか。
 ささやかな反抗意識を見せるために、「暇じゃない。単に無気力なだけだ、勘違いしないでくれ」と言い訳すると、無言で引っ叩かれた。
「痛いなあ。で、何しに来たの?」
「アンタ宛に手紙よ」
 そう言って母は、僕に茶色い封筒を手渡して、去っていた。見ると、確かに宛名には僕の名前がある。
 妙だな、と思った。僕は生まれてこの方文通というものをしたことがないし、残暑見舞いを送ってくるような相手がいるほど交友も広くない。しかし城阪晴彦なんて名前は滅多にいないし、これは僕宛のものと見て間違いない。一体誰からかは見当もつかないが。ひょっとして、密かに僕に思いを寄せる子からのラブレターか? 無いな。
 それでも万が一のことを考えて居間に行き、綺麗な字で宛名が書かれた封筒を几帳面に鋏で開けると、中からシンプルで、しかし中々に綺麗な便箋が出てきた。
 三つ折にされていたそれを開くと、封筒に書かれた宛名とは打って変わって、非常に形の崩れた文字が目に入った。線をはみ出して書かれた大きい文字は、いかにも子供が書きそうな感じのもので、苦労してそれを解読する。
 最初に大きく、こう書かれていた。
 『八年後の自分へ』と。
 それで思い出した。そういえば昔、確か僕が転校する年のことだったか、つまり小学三年生の頃、将来の自分に向けて手紙を書いた。当時担任だった先生が非常に遊び心溢れる人で、よく思いがけない方法で授業を盛り上がらせる楽しい人だった。その先生が国語の授業で、手紙の書き方という題材を取り扱った際、普段文章を書く癖の無い子供たちが四苦八苦している姿を見て「じゃあ将来の自分に手紙を書くことにしよう。先生がそれを預かって、八年したら皆に送るってのはどうだ?」と提案し、結果生徒たちは皆やる気を出したのを覚えている。何故十年や五年でなく八年なのかは未だ分からないが、僕も将来の自分がその手紙を見て楽しめるよう、一生懸命面白い内容を考えた。
 しかし、当時自分が書いたことまでは思い出せない。ニ年ほどは覚えていたのだが、それでは将来手紙が届いたときつまらないと、忘れる努力をしたのだ。手紙のことを思い出しそうになるたび、その日の朝ご飯のメニューを思い出すようにした結果、三年もする頃には手紙を書いたことすら忘れていた。どうでもいいことに限って上手くいくものだ。
 それにしても、当時の僕は何を考えていたのだろう。今になって届いたそれには、手紙というよりは、メモといった感じのことが書かれていた。地名、だろうか。かなり断片的なことしか書いていない。小学生にありがちなウケ狙いの文章にも見えないし、かと言って将来の自分へ向けて真面目に語りかけるものでもない。
 有り得ないとは思うが、万が一これが埋蔵金の在り処などの極めて重要なことが書いてあるものだったら困るので、僕は机上の手紙を前に、腕を組んで考えた。手にとって、逆さにしたり光に透かしてみたりした。ライターであぶってみたりもした。しかしそれでも、答えは出てこない。一体僕は僕に何を伝えたかったんだ?
 ふと――手紙に書いてある地名に、心当たりがあることを思い出した。八年前に、僕が住んでいた辺りに、確かそういう名前の場所があった。一体あの場所がどうしたというのだろう。そこで誰かと約束でもしているのか?
 朝食時、母が言っていたことを思い出す。祖父の家は、かつて僕が暮らしていた場所だ。あそこに行けば、すぐにでもこの手紙の示す場所に向かい、何があるのかを確かめることが出来るだろう。
 そんなわけで、僕は祖父の家に行くことにした。


 いや、怪しいとは思っていた。祖父の運転する車の助手席に乗っている時点で、フロントガラスに跳ね飛ばされて死んでいく虫の数が妙に多いことに、薄々疑問は覚えていたのだ。
 久々に訪れたその村は、想像を絶する恐ろしい場所だった。僕は数年前まで、こんな場所で生活していたのか? と疑わせるほどの。
 夕食を食べた後、すぐに祖父が車で迎えに来た。祖父は昔と変わらぬひょうきんな顔つきと性格をしており、「大きくなったあ」とか「格好良くなってきたじゃねえか」などと僕をからかった。高校生相手にそれはないだろう、と思ったが、この人は僕が成人になってもこの調子でいそうだ。そういう人種なのだ、祖父は。
 窓に頬を貼り付けて冷たいなあとか思いつつ、どこの高校で何をしているなど、話している側も聞いている側も退屈であろう、本当に他愛も無いことを話しているうちに車は祖父宅に着いた。久しぶりに一時間以上車に乗ったことで疲労していた僕は、居間に入るなりすぐに眠くなり、招待してくれた祖父には申し訳ないが到着早々寝ることにした。
 上が熱くて下が冷たい古風な風呂に入った後、ドライヤーが無いことに気付き、仕方なくタオルで髪を拭いた。習慣的にトイレに入って用を足している最中、ふとあることに気付いた。
 トイレの壁に、妙な模様がある。黄色く薄暗い電灯だったため、今まで気付かなかった。内側が黒、外側が黄色の二重丸の模様、目玉にも見える。いや、わかってる。これは模様なんかじゃない。例えその奇妙な模様の持ち主の全長が十五センチくらいに見えたとしても、現実を受け入れるしかない。
 頼む、動かないでくれと祈りつつ、何とか用を足し終えた僕は、華麗にバックステップして、即座に個室を飛び出した。目はとっくに覚めていた。
「じいちゃん! 殺して! トイレにでかい蛾!」
 一歩間違えれば不味い意味にも取れるギリギリな倒置法と語の省略で、僕は叫ぶ。居間で寝転がって煎餅を齧りながらテレビを見ている、典型的爺さんに向かって僕は叫ぶ。やっぱり田舎なんてろくなところじゃない。一体どこからあんなに大きな虫が入ってくるのだ。窓にバレーボール大の穴でも開いてるんじゃないのか? このままじゃ今後安心して用も足せないじゃないか。
 祖父はテレビの野球中継から目を離して顔だけをこちらに向け、楽しげな表情を浮かべた。
「なんだ、蛾ごときでびびってるのか? 情けねえなあ、おい」
「これくらいの蛾だぞ? ありえねえって!」
 両手の親指と人差し指で輪を作り、蛾の大きさを表現してみせたが、祖父は「そうかそうか」と鼻で笑うばかりなので、僕は「殺虫剤はどこ?」と聞き、祖父が指差すところから錆びた缶を手に取り、再度トイレに向かった。
 自らを奮い立たせるために「覚悟!」などと芝居臭い台詞を放ちつつトイレのドアを開ける。蛾は先ほどと同じ位置にいて、僕は少し安堵した。台詞とは裏腹なそろそろとした動きで慎重に蛾に歩み寄って、殺虫剤の噴射口を向けた。
「……あれ?」
 ぷすー、ぷすー、と間抜けな音が個室に響く。噴射口から出るのは勢いのない気体ばかりで、こんなのに殺傷能力があるとはとても思えない。おそらくこの缶なら、火中に投げ込んでも何ら問題ないだろう。つまるところ、空だ。
 一方勢いのない気体を浴びた蛾はそれに過敏に反応し、例の目玉模様で不気味に彩られた羽を羽ばたかせてこちらに向かってきた。「ひいっ」と情けない叫び声をあげて、僕は両目を閉じて顔を手で覆った。戦場で弾切れした人の気持ちって、こんなんだろうか。右手に柔らかい、異様な感触が走り、途端鳥肌が立った。これは――蛾が止まっている!
 慌てて振り払って、自分の体とは思えないほどの瞬発力でトイレから逃げ出し、「溶ける! 溶ける!」と右手を服で拭いながら、半泣きで居間に駆け込む。
「じいちゃん、殺虫剤空っぽだったぞ!」
「ははは、だろうなあ」
 だろうなあ、ってあんた。
「おかげでたった今、現在進行形で脳にトラウマが刻み込まれている!
 その後祖父に懇願して蛾を退治してもらい、(素手で殺す様を見て新たにトラウマが出来そうになったが)布団を敷いて横になったものの、さっきの驚きと蒸し暑さがあいまって、中々眠れない。こうなったら、と居間から蚊取り線香を四つほど持ってきて、何かの儀式でもするかのように布団を囲むように置いた後、電気を消して窓を開けて、寝たのだった。ここに来る理由を作った、八年前の僕を恨んだ。
 全く、誰だ、都会は怖いだなんて言い始めた奴は。田舎の方が、余程本能的に恐怖を感じるぞ。まあ都会は都会で、朝起きたらゴキブリとこんにちは、なんてこともあるけど。そんなことをぶつぶつ言いながら、洗顔を終えた僕は居間に向かった。
 居間につくと、当然ながら既に祖父母は朝食を終えていたようで、僕を見ると祖母は「ああ、起きたのかい、今ごはん出すからね」と年寄りの手本のような喋り方で僕に微笑みかけた。台所からサラダを持ってきて、「先にこれを食べててね」と言い、再度台所へ向かった。祖母は基本的に、安全で穏便で温厚な人間の出来たお婆さんだ。祖父のような人には、こういう人が丁度いいのだろう。実際二人は仲が良い。
 机にあったドレッシングを振ってサラダにどばどばとかけ、ふと箸がないことに気付く。確か以前来た時には棚の中に入っていたはずだな、と何気無く棚を空けたところで、昨晩に続く本日一回目のサプライズが到来した。
「なな、なんだこりゃああ!」
 そんなベタな叫びをあげずにはいられないほどの衝撃。思わず全力で部屋の隅まで後退した。
 そこに入っていたのは、串刺しにされたカメムシが詰まった瓶、ペットボトルの中を元気に飛び回る数百匹のイナゴ。標本とかホルマリン漬けとかいうレベルじゃない、まだ生きている。マッドサイエンティストでも住んでいるのか、この家は。後ろの方では聞いてもいないのに背後から祖父が説明口調で、
「ああ、イナゴは今糞抜きをしている最中でな、終わったら佃煮にするんだ」
 食べるのかよ。
「カメムシは普通に殺すと臭いから、こうして針で刺して密閉した容器に――」
「ああ聞きたくないなあ!」
 祖父は自分の作った落とし穴にかかった相手を見る子供のような目付きで、僕を見る。もしかして僕がこの棚を空けるのを事前に予知して、こんなものを入れておいたんじゃないのか。実際、祖父はそういう人だ。良い言い方をすると童心を忘れない遊び心溢れる爺さん、悪い言い方をすれば齢七十にして未だ高校生相手に悪戯を仕掛ける大人気の無い爺さん。僕が五歳の頃から「サンタはプレゼントを子供に与えた後、それ相応のものを奪っていく」などと妙に考えさせられる嘘を挨拶レベルで付いてきた、想像力豊かな爺さんだ。
 気を取り直して、先ほど見た光景を記憶内から消去して、サラダに箸を伸ばす。
「あ、そのレタス青虫ついてるぞ」
「食事中です、空気を読んでください」
「ち、バレたか」
 などと言いつつ、しっかりレタスをチェックする僕だった。
 その後、祖父母と適当に談話した。どうやら祖父が僕を誘ったのには、近々ある十年ぶりに復活したという花火大会に一緒に行こう、という目的があるらしい。祭りの類は嫌いではなかったし、花火をここしばらく見てなかったことから、僕はそれを承諾した。
 以後はひたすら、居間の隣の部屋で適当に暇を潰していた。本来ここに来た目的は手紙に書いてある場所の捜索なのだが、一度玄関を出ようとドアを開けたところで、とてつもなく不快な熱気を感じ、即座に踵を返した。外に出るのは涼しくなってからにしよう。どうせ時間はあり余っている。
「折角来たんだ、祭りが始まるまで外で遊んできたらどうだ」
 だらしなく部屋に寝転がる僕を見て、祖父は言った。正論だが、あちらも寝転がって将棋だか囲碁だかの番組を見ながら尻を掻きつつ言っていたので、説得力皆無だった。よって僕は「今俺は暇を潰すので忙しいの」と華麗にスルーした。
 この時間帯には面白いテレビ番組もやっていなく、ゲームもパソコンも無いこの家で僕が出来ることと言えばただ一つ、持参してきたCDコンポで大好きな音楽を聴くことだった。洋楽からクラシックまで多彩なジャンルの曲をスピーカーから垂れ流して寝転がり、たまに久石譲の名曲『summer』なんかに口笛であわせてみたりする。
 何気無く携帯を開くと、一通メールが届いていた。勿論それは彼女や親しい女友達からではなく、友人からのものだ。
『合宿先からだ。部活が忙しくて死にそう。いいな、お前は部活入ってなくて』
 そんな内容のことが現代の若者風な文章で綴られている。異様にエクスクラメーションマークが多くて不快だ。僕は「お前が入りたくて入った部だ、文句言うんじゃねえ。ていうか心底楽しんでるだろう、自慢すんじゃねえクソ」とこぼしつつ、
『そりゃ大変だな。こっちはこっちで退屈すぎて死にそうだ。頑張れよ』
 といった内容の返信と、怨念みたいなのを飛ばした。
 退屈で死にそうなのは事実だ。別にそれが嫌なわけではないし、むしろこうして好きな音楽を思う存分聞いていられる分、忙しいより大分楽しいのだが、それでも何か、中学生、高校生となるにつれ、生活に張りがなくなった気がする。今になって、時間に追われる生活というのは楽しかったと思うようになって来た。時間が足りないからこそ、少ない余暇時間を充実して過ごすことが出来たような気がする。
 まあ人間、過去を美化するものである。どうせまた忙しくなったら、なんだかんだ言って退屈な方が良かったとか言い出すのだろう。どうせあと一年もすれば再度受験生になり、また勉強に終われる日々が嫌でもやってくるのだ。そうなれば、今のような自由気ままな生活も終わりだ。そうして受験が終わると再度暇になり、また忙しくなり、そうこうしているうちに社会人である。
 しかし、せめて一つだけ。社会人になる前に一つだけ、なにか、大人になっても胸を張って誇れるような、立派な思い出が欲しかった。今持っているような曖昧茫洋とした一般的な思い出ではなく、たまに思い出したりして、「あの頃の俺は本当に輝いていた」とか言えるような体験をしてみたかった。そうでないと、これからどうやって生きていけばいいのか。自分の人生を肯定する上で必要なのは、思い出と実力だ。僕は後者を所有していないため、消去法的に人生の意味付けには思い出が必要になってくる。
 試しに、腕を組んで今まで十七年間、どんな思い出があるか思索してみた。
 すると真っ先浮かぶのは小学生時代の夏祭りにお泊り会、肝試しに花火大会、学級レクの焼肉、中学の修学旅行。いずれも共通点があり、全ての場合に置いて友人と一緒で、尚且つ季節が夏ということである。ついでに、誰でも持っていそうな至極一般的な思い出というのことも。やはり、とてもじゃないが、胸を張って自慢できるようなものではない。
 胸を張って自慢できるものではない。けれども、小学生の頃は毎日が幸せだったのも、否定しようの無い事実だ。夏休みなんかは、早起きしてラジオ体操をしながら友人と楽しく会話、そのまま幼馴染の家に直行して朝食を一緒に取り、どうやって今日という日を有意義に過ごそうか二人で考えた。答えも出ないまま虫取り網をもって森に出かけて、昼には今度は僕の家に幼馴染を連れてきて、一緒に昼食を取る。じゃあ午後は自転車でどこまで行けるか試してみようよと意気込み、そのまま迷子に。そんな毎日。
 あの頃全てが楽しかったのは、おそらく何も知らなかったからだろう。全てが知らないことの連続で、故に全ての事柄に新鮮さを覚える。それが知識が増えるにつれ、物事に新鮮味を感じなくなり、失った感動を補うために知識をさらに増やし、そうしていくうちに余計なことまで知ってしまい、無気力無関心無感動になる。増えた知識は減らせない。だから、どんなに足掻いても、あの頃に戻ることは出来ない。あの時の高揚感は味わえない。
 そう思うと、少し寂しくなった。
 気付くと既に昼食の時間帯になっていたので、僕はゆっくりと腰を上げた。
「ばあちゃん、カキ氷作るあれ知らない?」
 台所を漁りながら、近くを通りがかった祖母に問いかける。何か冷たいものが食べたかったので、久々にカキ氷でも作ろうかと考えたのだ。
 祖母から手回し式のカキ氷器を受け取り礼を言うと、早速冷蔵庫から氷を取り出して居間でごりごりやり始める。途中、廊下から電話のベルがするが、無視する。それくらいの覚悟と勢いでごりごりやる。カキ氷というのは、偉大だ。なんせ水とジュースだけで腹を満たせ、暑さも凌げるのだ。これだけ原価が安いものをコンビニで買って食べるような奴は、どうかしてると思う。
 勢いで祖父母の分まで作ってしまった。出来上がった小さな氷山にスプーンを刺して、後先考えずに苺シロップをどばどばとかける。鼻血を吸い込んだティッシュみたいに赤く染まっていく白い氷の山、赤と白の割合が一対一になるまでシロップを垂らし、一気にスプーンで口に運ぼうとしたところで、また廊下の電話が鳴った。
 僕以外の誰かが出てくれるだろう、と無視していたが、いつまで経っても電話は鳴り止まない。僕はベルの音というのが非常に嫌いで、聞いているだけで不快感を感じる。あの音は学校のチャイムや目覚まし時計の音と同じで、自分の行動を制限する音だ。
 仕方が無く廊下に出て、電話を取り「はい城阪です」と答える。自分以外の家の電話を取るというのも、妙な感覚だ。すぐにでも祖父か祖母に代わろうと辺りを見回していると、電話口から若い女の声が聞こえた。
『よかった、晴彦だよな?』
「え、ああ、そうだけど」
 ――ん? どうしてこいつは僕がここにいることを知っているんだ? ここに僕が住んでいたのは随分前だぞ。いや、それ以前に、どうして僕の名前を?
 正体不明の電話主は僕が城阪晴彦であるということを確認すると、随分と懐かしい名前を口にした。それを聞いて、僕はようやく電話相手のことを思い出すことが出来た。
『あー、その、麻里だけど。わかる?』
 相変わらずの、少し低血圧気味の、気だるそうな声。それは八年前に縁が切れたと思っていた、いつかの幼馴染からの電話だった。
 しばらく呆然として、数秒して何とか言葉を探して、冷静を装って言う。何故今になって彼女から電話が来るのか疑問だったが、とりあえず女からの電話というのは貴重なのは確かだ。すぐに会話を終了させるような真似は避けなければならない。
「ああ、わかるわかる、麻里か。何で俺がここにいるってわかったんだ?」
『あのさ、「八年後の自分へ」って手紙きてない?』
 僕の質問には答えず、早口で聞いてくる。そういえば僕と麻里は同じクラスだったから、あいつにも八年前の自分からの手紙は届いているのか。そのことで嬉しくなって、僕に電話をかけたのか? いや、あいつはそんな性格はしていないはず。どちらかというと、八年前の自分の書いた文章の幼さ痛さに頭を掻きむしり、記憶から抹消し、無かったことにするタイプの奴だ。懐かしいねー、なんていう姿は奴には似合わない。
「おう、届いてるぞ。いや当時の俺は何を考えていたんだろうな、何やら意味不明の遺言みたいなのが書かれてるよ」
 そう笑いながら言うと、麻里は少し気まずそうに黙り、『それ、私の』とぼそりと呟いた。
『その遺言みたいなの、私の書いた手紙なんだ』
 再度頭がフリーズする。
 少し頭を整理しよう。届いた手紙はどんなものだったか、思い出す。自分が使うとは思えないような、綺麗な便箋。自分でも思い出せない、意味不明の内容。
 成る程。いきなり言われるものだから少し戸惑ったが、すぐに納得した。それなら自分の手紙の内容を理解できないのも頷ける。自分以外の人の書いた単語の羅列を、理解できるはずが無い。遺言なんて言って悪い、麻里。念のため手紙の内容を朗読して伝えると、麻里は『ああ、それだそれだ』と嬉しそうにした。
「あれ? じゃあ、となると俺の手紙は――」
 見られたのか。
『こっちに届いてるよ。ところで今、滝沢にいるんだよな?』
「ああ、そうだけど」特に手紙の内容に付いては触れられなくて、ほっとする。
『じゃあ今からそっちに行くよ。手紙、渡せるようにしといてな。じゃ』
 そう言って、麻里は僕の返事を聞かずに電話を切った。断る気も無かったが、少し遠慮が無さ過ぎるのではないか。いや、昔はいつもこうだったか。
 麻里とは、幼稚園のときからの仲だ。父が彼女の親と同じ会社に勤めていて、また彼女と僕は家が近かったため、僕らは一緒に遊ぶことが多かった。まあ田舎というのは基本的に皆友好的で、クラスも一つの学年に付き一つだし、遊んだことの無い同級生の方が少ないが。ちなみに先ほど挙げた思い出に出てくる幼馴染というのは、こいつのことだ。
 麻里は性格は悪くはないが、幼稚園の頃から僕とよく悪口を言い合っていたせいか、少々口が悪い。外見は、横に長く縦に狭い切れ長の目が印象的、他は可もなく不可もなくの一般的な顔立ちだったと記憶している。とはいえ人間、特に若い人間というのは数年で大分変化するものであり、今彼女がどんな人間になっているかはわからない。
 彼女の家はここから結構近い位置にあるはずで、ものの数分もせずに顔を見せると思っていたのだが、数十分しても姿を見せなかった。もしかしたら、どこか遠くから電話をしていたのかもしれない。僕の自宅を訪ね、そこに僕がいなかったため、以前僕が住んでいたここに電話をかけてきたという可能性も充分にありうる。
 意味も無くそわそわしながら、今更になって寝癖を治してみたり、念のため部屋を片付けたりしていた。考えてみれば、さっきの電話によって僕が祖父の家に来た意味は全くなくなったのだが、それでもまあ麻里に会えるのならよしとしよう。旧友との再会と言うのは、たとえ相手が誰であっても嬉しいもので、それが仲の良かった幼馴染なら尚更だ。
 僕が麻里を待っている間、祖父は相変わらず僕を何度もからかった。さっきの電話は何だ、とか誰がこれから来るんだ、とか。
「幼馴染。じーちゃんも知ってるはずだろ、麻里だよ」
「ほお、そうか、晴彦もとうとう。そうか」
「途中で切るなよ。とうとうの次はなんだよ」
 電話から一時間ほどして、ようやくチャイムが鳴り、僕は玄関を出た。
 八年ぶりに再会した幼馴染は、まあ結構見れる顔にはなっていた。薄手の涼しそうな服に身を包んだ麻里は、それでも汗で額に髪が張り付いている。ここまで歩いてきたらしい。
 会って最初に、「久しぶり」と麻里は僕に手を上げた。僕も同じように右手を上げ応える。外に立たせるのも辛そうなので、玄関に入れてそこに座ってもらうことにする。溜息を付いて座り込む彼女に早速手紙を渡すと、彼女も慌ててポケットから手紙を取り出し、「ごめん、一度中身読んだ」と手を合わせて謝った。「いいよ、俺もお前の読んだし」と返したが、手紙を読むと謝られた意味がよくわかった。どう考えてもウケ狙い全開な、痛々しい文章だ。見ているこっちが恥ずかしくなる。誰だ、こんなもの書いたのは。僕だ。
 再会して最初のうちは互いに少し牽制しあっていたが、話しているうちに互いが八年前とさほど変わっていないのが分かると、すぐに打ち解けることが出来た。背伸びたな、と僕の頭をばしばし叩く麻里。僕も同じように叩き返す。
 しばらくは、互いの近況を話し合った。あの後どの中学に入って、どんなことをしたとか。なんだか昨日も似たようなことを話した気がするが、相手が元同級生となると話は弾む。玄関に座り、互いに団扇で扇ぎあいながら三十分ほどすると、麻里の汗も乾いた。
「しかし、どうして手紙が入れ替わったんだ?」
 ふと気になったことを質問してみると、彼女は「長くなるし面倒だから、一回で理解するように」と前置きして、説明し始めた。何やら事情を知っているらしい。
 僕は知らなかったが、僕が転校した一ヶ月後に彼女も転校していたそうだ。考えてみれば親が同じ仕事をしているから、同じ転勤先に引っ越すのは至極当たり前なことだ。近くに中学校は二校あったため、僕と麻里は違う学校に通ったが、実際はかなり近くに住んだいたらしい。そのことを耳にした例の担任は、親切にも二人分の手紙の宛先を修正してくれたのだが、ただでさえ転校の時期が重なった上に、僕と麻里の住所は酷似していた。さらに麻里は自分の書いた手紙が自分自身のものだと担任に悟られたくなかったらしく、字は男子のように汚く書き、加えて手紙に名前を書かなかったそうだ。そんな複数の原因により、先生は二人の住所を取り間違え、入れるべき封筒を逆にしてしまったわけだ。
 僕が持ってきた麦茶を片手に、「すごい偶然じゃないか?」と麻里は言った。半分はお前のせいだろという突っ込みは置いて、僕は素直に驚いた。本日二回目のサプライズだ。どうやら諸悪の根源は八年前の僕でなく、あのときの担任らしい。いやでも、こうして今八年ぶりに麻里と顔をあわせているのは、担任のおかげか。ありがとう当時の担任。名前は忘れた。
 ちなみにここに来るまでに、やはり彼女は一度僕の家に寄っていたらしい。そこで僕が現在祖父宅にいるのを伝えられた麻里は、そこから全速力でここまで来たとか。
「――で、実際のとこ、この手紙の内容は何を示してるんだ?」
 僕はさらにど真ん中直球で、一番気になっていたことを質問した。その質問は予想外に彼女の思考に波紋を呼んだようで、しばし麻里は沈黙した。
「馬鹿にするなよ」勝手に拗ねたような声で言った。
「何を」勿論馬鹿にする気満々だ。
「タイムカプセルの在り処が書いてあるんだ」
 ああ、成る程。そう言われれば、確かにこの手紙は場所を示している。その場所が何を意味するのかが不明だったのだが、ようやく謎が解けた。埋蔵金という予想も、埋められているという点においては、あながち外れていなかった。
 麻里は、これからそのタイムカプセルを掘りに行くつもりだという。僕の家で休憩してから、目的地に向かう予定だったらしい。
「……お前、案外ロマンチストだったんだなあ」
「やかましい」
 麻里は僕の後頭部を平手で叩いた。


 麻里がタイムカプセルを埋めたのは、ここから歩いて三十分ほどの場所だった。どうやら当時の麻里は意外にも相当のロマンチストだったらしく、タイムカプセルを埋めたのは学校の傍の裏山である。お約束というものを分かっている。
「八年前の私を褒められてもなあ」
 照れ笑いしながら、麻里は僕の三メートルくらい前を歩く。
 数分前、『俺も掘りに行く!』と駄目もとで言ってみると、なんと『いいよ。てか手伝え』とあっさり受け入れられた。もしかしたら最初から、ついてきてもらいたくて僕の家に長居したのかもしれない。幼馴染効果は伊達じゃない、と意味不明なことを言いながら、倉庫からシャベルを二つ取り出すと、麻里の指示に従って学校に向かった。
 昨晩の話を誇張して話しながら、飛行機雲が浮かぶ青空の下、日光を照り返して安っぽい灰色に輝くアスファルトの上を歩く。互いに「虫こえー」とか言って笑う。そんな中麻里は「クシャ」と道路に落ちているセミの抜け殻を踏んで、慌てて飛びのいた。それを見て更に笑っていると、タイヤに踏み潰されたであろう、大きなアゲハチョウの幼虫の死体を見つけ、踏みそうになった。
 この歳になると、虫は恐怖すべき対象になる。イナゴやトンボも相当怖いが、僕は特にセミという生き物が非常に苦手だ。まず五センチ以上ある虫は基本的に苦手なのだが、加えてあの独特の模様と羽の大きさ目の離れ具合、その他僕の考える気持ち悪さを追求したフォルムがセミである。抜け殻も化け物みたいな体裁だし、ミンミンゼミの羽化の瞬間なんて見た日には、おそらく卒倒するだろう。図鑑でさえ眩暈がする。
 そのミンミンゼミはどうやらこの村では大発生しているようで、家を出ると途端に梅雨時の雨みたいにミンミンゼミの大合唱が降り注いだ。ただでさえ気持ち悪いのだから、せめてヒグラシやツクツクホーシのように綺麗な鳴き声を発して欲しいものだ。ミンミンゼミの鳴き声というのは聞いていて暑さに拍車をかける音だし、あと単純にうるさい。
 裏山に向かって歩いている最中、麻里は鞄から虫除けスプレーを取り出した。ここに来る前に予め用意していたようだ。麻里はスプレー缶を上下に振った後、息を止めて腕をまくり、そこにスプレーした。右腕、左腕、両足と順に。
 風に乗って漂う虫除けスプレーの香りに、ふと思う。虫除けスプレーの匂いというのは、不思議だ。夏の匂いと聞かれてまず最初に連想するのが、何故かこれだからである。そしてこの匂いを嗅ぐ時期イコール夏休みだったためか、僕は虫除けスプレーの匂いが好きだった。蚊に刺された際の塗り薬や、屋台の油っぽい焦げ臭い匂いもその類に含まれる。
「晴彦も使う?」
 麻里にスプレーを手渡された。僕は何を血迷ったのか、虫除けスプレーの匂いを嗅ごうと思い自らの鼻に向かってスプレーを噴射し、結果むせた。けほけほと咳き込む僕に向かって麻里は笑いながら、
「何やってんの? 馬鹿なの?」
 自分でもそう思う。
「いや、唐突に殺虫剤吸引自殺をした人の気持ちが知りたくなってな」
 途中、「こっち」と麻里が指差す、田んぼのあぜ道を通り、近道をした。田んぼには水がなみなみと張ってあり、日光を反射する水面は鏡のように空と電信柱を映し出していた。中には蛙やおたまじゃくしも沢山いるのだろう、昔田んぼに自転車で突っ込んだ人や肥溜めに落ちた人の話を聞いたのを思い出して、草に引っかかって落っこちないよう慎重に歩く。
 話題が尽きてきたので、少し方向転換をして、これから掘りに行くタイムカプセルについて聞くことにした。
「一体何をいれたんだ? 宝物とか?」
「いや、確か手紙だったと思う。相当の長文の」
 そんなことするくらいなら、初めから八年前の担任の企画の際、沢山手紙を書けばよかったのに。そう言うと、「確かにそうだよね、なんでだろう」と麻里は首をかしげた。単純に頭が悪かったんだと思う。
 田んぼを抜け、木々が道路脇に沢山生えた日当たりの悪いトンネルみたいな通路を抜けると、そこは不思議の町でした――なんてこともなく、普通に学校に着いた。夏休みで子供がいないというところ以外は、特に寂れる様子も無く、あれから全く変わっていない。今となっては地面に足を付けたまま歩ける雲ていや、今後乗ることもないだろう滑り台を過ぎて、ようやく裏山の前まで来た。
 裏山と言ってもそれは殆ど森みたいなものであり、単に坂道なだけで、親切に通路が設定されているわけでもない。普段人が通る場所も夏になって木々が生い茂り、非常にのぼりにくそうで、入ろうとする気が萎えてくる。なのに麻里は躊躇いも無く、裏山に入っていった。僕も仕方なくそれに続く。
 木々が増えるにつれ、セミの声が大きくなってくる。音からすると相当近くにいるようなのだが、その辺りを目を凝らして見ても、セミは見当たらない。コオロギやスズムシもこうなのだ。探せばそこら中にいそうなのに、いざ探してみると見つからなくなる。そういえば昔から、セミが鳴いている現場を見たことが無く、捕まえるセミはいつも地面で羽ばたいている寿命寸前のセミばかりだった。一体セミというのはどこで鳴いているんだ?
 そんなどうでもいいことに思いをめぐらせているうちに、段々と道らしい道はなくなってきて、足元が不安定になってきた。途中途中棘のある草がズボンに引っかかり、転びそうになる。それでも麻里は、足元の小枝をパキパキ言わせながら僕の数メートル前をずんずんと歩いていく。足首の見える服装をしているのに、痛くないのだろうか。
 顔の周りを飛び回る蚊を手で払いながら、僕は麻里に聞いた。
「よりによって、なんでこんな将来の自分にも不親切な場所に埋めるんだ、八年前のお前は」
 麻里は少し歩くスピードを緩め、振り返った。
「多分、相当他の人にばれたくなかったんだろうね。でも、あと五分くらいで着くと思う」
 麻里がそう言った十分後に、僕らは目的地に到着した。話が違うじゃないか、と言おうと思ったが、子供っぽいのでやめた。
 そこは今まで歩いていた足場の悪いところとは打って変わって平たい土地で、ミステリーサークルみたいに周囲に草木が殆ど生えていなく、ひだまりとでも言うのだろうか、とにかくいかにもな場所だった。地蔵や石碑でも建てておけば、より一層神秘的になるだろう。というか、近寄りたくない。麻里がタイムカプセルを埋めるのにここを選んだ理由もよく分かった気がした。こんな場所が、過去に自分が住んでいた場所にあったのか。
「で、どこに埋めたんだ?」
「真ん中辺り」
 そう言って麻里が指差したところは、成る程確かに真ん中辺りだ。しかし麻里は、そのまま指を横にスライドさせ、指差す範囲が五メートルくらいになったところで指を停止させた。随分とアバウトだ。ここら一帯、全部掘り返せということだろうか?
「いや、だって、目印とか無いし。真ん中辺りってことは覚えてるんだけど。八年前の手紙になら詳しく書いてあると思ったけど、そうでもないみたいだし」
「そうかい。じゃ、掘るか」
 そう言って地面にシャベルを突き刺す。しかし、思った以上に落ち葉が邪魔をして、深く刺さらない。足を使って先端を無理矢理地面に押し込み、体重をかけて土を持ち上げると、テコの原理で一気に地面が盛り上がった。
 穴を掘るのなんて何年ぶりだろうか。確か最後に土を掘ったのは小学校五年生のとき、学校でヘチマを植えたときだ。その時も使ったのは小さいスコップだったし、もしかしたら、こんな大きなシャベルを持って地面を掘り返すのは、初めての体験かもしれない。
 五分もすると、額から垂れた汗が首を伝い、胸に入るほど汗だくになった。思ったとおり、ここは日当たりが良すぎる。半袖の二の腕部分で汗を拭い、何となく麻里の方を見る。端のほうから順に掘る僕に対して、彼女は無秩序に辺りを掘り返しているようだ。性格の現われか。
 体全体がだるくなり始めた頃、ふとスコップに硬い感触が走った。何かに先端が当たったようだ。最初は石かと思ったが、表面が見えてくると、それが妙に平たいことに気付く。まさか、と思って慎重に辺りを掘り返すと――
「……あ」
 思わず声が漏れてしまった。
「なにかあった?」
 麻里が反応して歩み寄ってきて、僕の足元を覗く。今頃になって、声を出してしまったことに後悔する。黙って知らない振りをして、埋めなおせばよかったかもしれない。僕が悪いことをしたわけではないのに、妙な罪悪感に襲われた。
 麻里はしばらく無表情に立ち尽くした後、地中の物体をこれ以上傷つけないよう、慎重に取り出した。
 八年ぶりに掘り出したタイムカプセルには、いや、タイムカプセルだったと思われる三十センチ大の鉄製の容器には、なみなみと泥水が入っていた。中からはどぶ川のような悪臭が漂い、原形をとどめていない手紙が、容器の中を浮き沈みしていた。
「……こんなものが八年も持つと思ってたのかね、あのときの私は」
 そう言って、麻里は苦笑した。
「やっぱり、耐水性じゃないと駄目だったな」
 そんな的外れな言葉しかでない自分に、心底呆れた。


「しかし、一体八年前の私は現在の私に何を伝えたかったんだろうね」
 夕方、祖父の家の縁側で、僕らはカキ氷を食べながら話していた。
 結局あの悪臭を放つ容器は再度埋めてきた。持ち帰るわけにも行かなかったし、どうせそのうち微生物とかが分解してくれるだろうと都合のいい解釈をして、僕らは山を下りた。
「どうせ『夢を捨てないで下さい』とかベタなことが書いてあるだけだろう。小学三年生なんて、そんなもんだ」
 今日だけですでに四杯目になるカキ氷を口に運びながら、適当なことを言ってみる。こんなに食べて腹の方は大丈夫なのか心配だが、何もせずに話すというのは、少し落ち着かない。
「なんか腑に落ちないんだよなあ」
 麻里が眉間にしわを寄せていると、祖母がスイカを持って来てくれた。朝市で買ってきたらしい。礼を言う麻里に、祖母は「いいのよ。しかし面白いわねえ、晴彦を読んだら麻里ちゃんまで帰ってくるなんて」と嬉しそうに残して、居間へ戻っていった。そういえば麻里は昔、この家に結構顔を出していた。祖母はそれを覚えていたらしい。
 塩を大量にスイカに振りかけていると、「うえ、塩分取りすぎて頭悪くなるぞ」と麻里に文句を言われるが、「これが俺流なの」と言ってスイカに噛り付く。甘くてしょっぱい夏の味が、口の中に広がった。
 風鈴が、夜風で涼しげな音を立てる。
 麻里が時計を気にし始めたのを見て、そろそろ帰ってしまうのかなあと思っていると、祖父が居間からやってきて、
「麻里ちゃん、折角だから花火見て行ったらどうだ?」
 僕が言おうか言うまいか迷っていた台詞を、あっさり言ってのけた。
「え、今日花火が見れるんですか?」
「おう、七時くらいから見れるぞ。屋台も出る。なあ晴彦」
「なんだ晴彦、教えてくれればよかったのに」
「行くのか?」僕は驚いて麻里に言う。
「ここまできて何もせずに帰るのも、何だか悔しいし。晴彦も見に行くよな?」
「え、ああ、当然だ」
 麻里に気付かれないよう振り返り、『今回ばかりはナイスだ祖父よ!』と祖父にジェスチャーを送ると、『たまにはじいちゃんらしいこともしねーとな。二人で花火でも見て来い!』とアイコンタクトが返って来た。ちなみに全て僕の脳内補完で、実際は何を思って言ったのかはわからない。
 しばらく適当に時間を潰した後、祖父と祖母、それに僕と麻里の四人で会場へ向かった。別に家にいても花火が見えないことは無いのだが、どうせ見るなら良い場所で見たい。車での移動は渋滞に巻き込まれて、気まずい時間を過ごす可能性があったのでやめた。
 外はまだ薄暗く、蒸し暑い。いつの間にか既に花火大会は始まっており、会場に向かう前から色彩豊かな光が空に浮かび、耳をつんざく破裂音がしたかと思うと、花火が散った後の余韻がぱらぱらと響く。随分早く始まるんだな、と祖父は嬉しそうに言った。余程祖父は花火が好きなのだろう。
 十年ぶりというだけあって、沢山の家族連れや小中学生が目に入る。そして流石田舎、何より老人が多い。麻里は時折見える、浴衣を着た女性を羨ましそうに見ていた。会場に近付くにつれ喧騒も徐々に大きくなり、屋台がちらほらと見え始めた。
「えーと、終電が十時のだから、ここから駅まで一時間で、今から大体……ニ時間くらいか。余裕だな」
 麻里は指折り数えながら独り言のように漏らすと、今度は財布を開けて予算を確かめる。どの程度祭りで遊べるかを、お金と時間、両方の面で計算しているらしい。こんなに計画的な奴が、どうしてあんな無計画なタイムカプセルを埋めるのか。
 ある程度四人で花火を見た後、祖父らなりの気遣いだろうか、二手に分かれて自由行動することになった。僕らは屋台を回って好物を買うと、立っているのも面倒なので座りやすそうな場所を探した。
 たこ焼きなんかを爪楊枝でつつきながら石段に座り込み、今後の抱負とかを話していると、段々と花火の打ち上げられるペースが速まってきた。次々に花火が空に浮かんでは消えていく。
「すげー」
 ありのままの感想を言うと、麻里も無言で頷いた。
 僕らがこんなに近くにいられるのは、異性としての意識とか、恋愛感情とかがないからだろう。兄弟なんかと同じ感覚だ。どちらかが相手を意識し始めた瞬間、こういう関係は一気に崩れてしまうのだと思う。だから僕は至極なれなれしく、同性の友人でもからかうかのようにして麻里に接する。
 花火のペースが落ち始める頃、この夏休みをどう過ごしていたかと言う話題になり、僕が終始音楽を聞いていたと言うことを話すと、麻里は膝を叩いて立ち上がった。
「そうだ。思い出した、テープも入ってたんだ」
 突然会話の流れを打ち切って、そんなことを言った。
「何の話?」
「タイムカプセルだよ。あの中に、将来の自分へのメッセージを吹き込んだテープが入ってるんだ。悪い晴彦、私もう一度あそこ行ってみる」
 そう言うと麻里は、もと来た道を引き返し始めた。カキ氷を食べながら言っていた『腑に落ちない』というのは、そういうことだったらしい。成る程確かに、テープならあの水の中でも生きているかもしれない。しかし仮にそうだったとしたところで、今取りに行く必要はないんじゃないか?
「別に今戻らなくても、明日にでも俺が掘り出してやるぞ?」
 僕がそう呼びかけるが、麻里は歩みを緩めず、「今日じゃなきゃ駄目」と小学生みたいなことを言う。一刻も早く取りに行きたいという気持ちは分からなくも無いが。仕方が無く、麻里の後を追った。
「どう考えてもここから裏山まで、往復で最低一時間はかかるぞ。終電には間に合うのか?」
「じゃあ、走ろう」
 余計な一言で、走る羽目になった。いっそのこと終電にも間に合わせなくして、一緒に泊まった方が個人的にも嬉しかった。しかし後の祭りだ。
 小学校の校舎が見え始める頃には辺りは真っ暗で、微かに響いていたヒグラシの鳴き声もいつの間にか止み、代わりに、徐々にスズムシの声が聞こえ始めた。昼に一度通った田んぼのあぜ道では、カエルの鳴き声が所々から聞こえる。
 足場の悪い山もなんのその、全力疾走で坂道を駆け上がり、目的地に到着した。こんなことだったら、祖父に頼んで車で来ればよかった。肩で息をしながら、携帯電話のライト機能を懐中電灯代わりにして、足元を照らしてみる。最近の携帯電話はかなり便利になっていて下手な懐中電灯より明るく、それだけで充分に目的の穴を見つけ出すことが出来た。不意に、小学生の頃懐中電灯が好きだったのを思い出した。地区の行事などで夜道を歩くことになったとき、懐中電灯で道を照らして歩くと胸が高鳴った。看板や標識を見つけるたび、わざわざ照らして歩いたのを覚えている。
 麻里に携帯を渡して、例の容器を取り出す。それを蹴ってひっくり返し、流れ出る汚水の中から、苦労して一つのカセットテープを見つける。こちらはきちんとケースで密閉されているようだ。いけるかもしれない。麻里と顔を合わせ、両手を合わせた。


 祖父の家に戻る頃には十時を過ぎていて、一体どこまで行っていたのか問い詰められ、特に悪いことをしていたわけでもないので、ありのままのことを話した。言い訳が済むと、僕が自室として使用していた居間の隣室に入って、持参してきたCDコンポにカセットを突っ込んで、再生ボタンを押した。麻里に「離れろ! 離れろ!」と言われるが、これは僕が持ってきたコンポなので、麻里にそんなことを言う権限は無い。どうやらテープは無事なようで、数秒してテープ独特の雑音が聞こえ始めた後、幼い頃の麻里の声が聞こえ始めた。
 目的を達成したのが分かると一気に気が抜けて、倒れるようにして畳の上に寝転がった。自分のTシャツが汗臭いのを感じ、今日は久々に沢山汗を流したなと思い出す。これが終わったら、あの古風な風呂に入ろう。いや、その前に麻里が終電に間に合うよう、祖父に車を頼まなければならない。
 そういえば、授業以外で息を切らして走るのも久しぶりだ。いや、カキ氷やスイカを食べるのだって久しぶりだし、スコップで穴を掘るのなんかは、初めての体験だった。花火なんかは、実に十年ぶりに見たことになる。
 そして、今はこうして幼馴染と一緒に遊んでいる、と。
 ――中々に、夏らしい一日だったではないか。
 テープの音量を限界まで下げて、スピーカーに耳を押し当てる麻里を指差して笑いながら、こんな一日を過ごす機会をくれた八年前の自分に、深く感謝した。
 近々、また八年後の自分に向けて、メッセージでも送ろうかと考えている。


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